ひきこもり女子いろいろえっち

20代ひきこもり系非正規女子のつまんないぼやき。とてもダメな人が書いてます。

自分の切り売り

語ってる その人権は ひとごとで 自分の人権 簡単に売る

 

前にも書いたけど、人権についていろんなこと語る意見の中に、「その語ってる人権、自分の人権でもあるのになー」って思うこと、いろいろある。

 

自分の「人としての尊厳」。

どこまで自分が守りたいか、その意識の持ち方はいろいろなんだと思うけど。

 

人権の一部を、人の尊厳なんて尊重しないだれかに差し出すこと。

それを容認できる考えが、私はフシギに思う。

 

いろんな条件下で、人権の一部が他者の暴力で侵害されること、「仕方ない現実」みたいに受け止める考え方って、自分がその暴力のこぶしの真下に立ってる意識はないから、なんだと思う。

 

いちど、そのこぶしに耐えた経験も、それをつぎのだれかに同じ体験させない知恵にはしないで、おなじことに耐えてみるべき、って思ったり。

 

自分が暴力の奴隷に名乗り出るんじゃない。

奴隷を乗り越えた人は、つぎのだれかを奴隷に仕立てる。

奴隷になったことない人は、それが「奴隷」って気づかない。

 

だれかの人権が、そーやって他者の容認で、どこかの支配者に損なわれてく。

 

でも、そーやって、人の尊厳をぜんぜん尊重しない支配者を容認していると、いつかその「支配」のこぶし、自分の頭の上に来るよー。

って私は思う。

 

それが怖いから、私は人権について、自分の問題として考える。

 

「あなたを今より優れた人間にするためだよ」

っていう名目でふるわれる暴力的な支配。

 

それを容認する社会は、いつか、

「あなたの国をもっとすぐれたものにするためだよ」

っていう名目で、個人の人権が暴力的に支配されたりしないのかなー、って、私は不安になる。

 

自分の尊厳を、暴力で損なわれることなく。

自分の人格を、暴力でねじ曲げられることなく。

自分の肉体を、暴力で傷めつけられることなく。

 

学ぶこと。

競うこと。

働くこと。

語ること。

生きること。

 

自分のそれらが、なにものかに力で支配されないこと。

 

私はそれを守りたいから、自分じゃないだれかの人権が侵害されてることに、「でもそれは仕方ない場合もあるかもー」っていう考え方で、自分が公平な視点もった気にならないよーにしたい。

 

人権の切り売りを、「されてもしかたない」っていう条件考えてたら、その条件って、いつまでも自分が許せる条件って限らないから。

ちがう人が考える条件は、自分の人権もやばい、ってことになるかもしれないから。

 

殴られても仕方ない条件。

それ考えるんじゃなくて、殴られても仕方ないかもしれない時に殴らないやり方、を考えれば、人が殴られない社会築ける、って思う。

 

暴力を容認するんじゃなくて、体罰でしかのびないって思う人の「のびない」部分に寛容の目を向ければいい、って思った。

 

のびない部分は仕方ないね、とか。

のびるまで時間かかるの待とう、とか。

どーしてものびない部分、ほかの人の力で補おう、とか。

 

人の尊厳まで奪って「致し方ない」っていう考えは、奪われた人の人格を育てるんじゃなくて、奪う側の驕りを育てるだけ。

 

奪う側はなにも失わないどころか得るものがあるから、人から簡単に奪う。

 

人権について、そんなふーにいろいろ考える。