ひきこもり女子いろいろえっち

20代ひきこもり系非正規女子のつまんないぼやき。とてもダメな人が書いてます。

言葉の中の人

 今、これ読んでる。

 

ゼロ―――なにもない自分に小さなイチを足していく

ゼロ―――なにもない自分に小さなイチを足していく

 

 

感想は読み終わったら、もひとつブログのほーに書くつもりだけど。

 

ここでは本の感想っていうわけじゃなくて。

 

かつての僕は、世の中にはびこる不合理なものを嫌う、徹底した合理主義者だった。

 -略-

僕はひたすら「ファクト(事実)」だけにこだわってきた。

 -略-

あいまいな感情の言葉より、端的な論理の言葉で語ること。それこそが、あるべきコミュニケーションの形だと信じ切っていた。

しかし、理詰めの言葉だけでは納得してもらえないし、あらぬ誤解を生んでしまう。そればかりか、ときには誰かを傷つけることだってある。僕の考えを理解してもらうためには、ます「堀江貴文という人間」を理解し、受け入れてもらわなければならない。

 

この部分。
転じて、ネットのコメントにもあてはめれるなー、って思った。


だれかに向けた批判的なコメントで、ひたすら「正しい事実」だけにこだわる意見とかある。
それはその人が思う「正しい事実」ね。


それはそれでひとつの正論なんだとしても。
そーいう批判を嫌がる人も結構いる、っていうのは、「批判されること」がイヤっていう弱腰とは違って、「押しつけられること」がイヤ、ってのも結構あるだろーなー、って思った。


そして、そーいう批判がなかなか相手に受け入れられないのは、批判の内容が正しいかどーかじゃなくて。


「それはだれが言ってきてるの?」
ってことも大きいと思う。


たとえば、ブックマークのコメントは、ブログを書いた人からはコメントつけた人たちをぜんいん、よく知ってるわけじゃないし、だいたいはぜんぜん知らないって感じだと思う。


だれだかぜんぜん知らない人からいきなり突きつけられるファクトは、簡単に受け入れる?
って、考えちゃう。


リアルだって、おなじ意味の忠告をしてくれる人がいたとして。
自分がすごい信頼してる人や自分の友だちとかの忠告と、ぜんぜんよく知らない近所のおせっかいおばさんの忠告は、自分にとって作用が違うよね。


忠告の内容を素直に聞くべき理性って大事だと思うけど、でも人間は感情もあるから。
好きな人からは自分に厳しい言葉を言われても、それを自分がちゃんと聞こう、っていう感情で受けとめれる。
でもぜんぜん好きじゃない人から厳しい言葉を言われると、傷ついちゃったり悲しくなったり怯えたり、「うるさいなー」「あなたになにがわかるの?」「無関係な人が口出ししてこないで」みたいな感情がムクムク膨らんできて、盾を作っちゃう。


好きでもない人、関心もない人、嫌いな人。
そーいう人の言葉って、なんで突きつけた相手の心に響かないかって、相手はその人の言葉をぜんぜん欲しがってないから、だよね。


必要ともされてないのに押しつけられてくる言葉は、いい作用を生まないよね。


知らない人の批判を「なるほどねー」って聞く耳もてる時は、その批判に興味が湧いた時。
湧かなければ心に響いてこないし、それをしつこく押しつけられると、「うざいなー」っていう感情が湧いてくる。


人と人のコミュニケーションって、そーいうもんだと思う。
「言葉」って、それ自体だけに意味があるんじゃなくて、その言葉はだれのものか、ってとこにも意味があると思う。

 

自分の意見をだれかに理解されたい時、それでだれかの心を揺さぶりたい時、それでだれかに影響あたえたいって時。


相手の「目」じゃなくて「心」に届かせるっていう作用は、「正しい意見」の中にあるんじゃなくて。
それを「伝える人の心」にある。


って思う。


だから、「正しい意見」は、文字だけで示す行為にこだわるだけじゃなくて、伝える相手の心を尊重してるか、ってとこが大事だと思う。

 

自分を嫌ったり拒絶してる人には、自分の言葉は押しつけれない、ってこと。
「要らないです」って言ってるとこに、ムリヤリ押しつけても、その相手はそれをありがたがらないから。

自分が相手の心を尊重しなければ、その相手からは自分の言葉も尊重されない、ってこと。


言葉は、人が使うツールだから。
だから、「人」抜きの言葉、って、意味ないよ。
言葉は、いつも「人」の中から出る。


言葉と言葉のコミュニケーションは、結局、人の心と人の心の対話、だから。


人の心をムシした言葉は、ゴミや凶器にしかならないことあるよね。

 

たった1つのあるブログがネットからなくなった。
そんなささいな事実に、とっても悲しくなるのは。


そのブログに書かれた文章がもー読めない、っていう、文字の喪失なんかじゃなくて。
それを書いた人が、もーそこにいない、っていう現実。


だれかが似たよーなことを書いたって、それはなんの代わりにもならない。
全文、コピペで再生させたとしても、それは元のオリジナルとは違う。


その人が打ちこんだ言葉には、その人がつまってるわけだから。
削除された文章は、その書いた人の存在のあかし。


人の心に残る言葉っていうのは、その言葉を吐いた人の存在感。


端的な論理は人の中で「知識」となるけど、あいまいな感情の言葉は人の中で「思い出」になる。

 


そんなこと、堀江さんの本を読みながら思った。

 

 

本はまだ半分までしか読んでないから、これから頑張って読む―。