不親切な風の道しるべ
濡れた髪 すぐ冷えてきて タオルまく メールの返事 ちょっとめんどー
私も勝手だと思うけど。
本の話とか、スプリさんとメールでしてると、楽しい、って思う時あるのに。
でも、ずっとそのメールのやりとりが続くと、途中からめんどくさくなる。
でも、本とかの話ができる人って、私のまわりにほかにいないからねー。
スプリさんがめんどくさいっていうより、携帯のメールがめんどくさい。
携帯のメールって、どこで途切れさせればいーのかわからなくなるから。
先生のブログに、すっごい偶然としか思えないけど、春樹のおじさんのことが書かれてた。
っていうか、「風の歌を聴け」をたった1冊読んだだけで、どの人の言葉に春樹のおじさんの影響があるか、すごいわかるよーになった。
あの1冊が村上春樹の基本レシピ、なの?
先生に話しかけてみたいな。
私はグールドのベートーベンを聞きたくなったりはしなかったけど、でも、関西に行ったことないと、この小説の舞台、横浜とか横須賀とか、そんな神奈川にしておきたくなるよね。
でも先生は関西にいないけど、関東の人でもなくなっちゃったから、私がこんなこと話しても、わかってくれないかもね。
「何故人は死ぬの?」
「進化してるからさ。個体は進化のエネルギーに耐えることができないから世代交代する。もちろん、これはひとつの説にすぎないけどね。」
この部分読んでから、なんで生きてるものって「成長」するのかなー、って考えにとりつかれてる。
学校でちゃんと習ってたはずのことなのかなー。
なんで、生き物は完成された形で生まれてこないんだろー。
植物とかも、いろいろ。
完成されたままなら、死ねないから?
赤ちゃんのままじゃ、自分だけで生きてけない生物もいろいろあるよね。
なんで、「育てられること」を前提として命は生まれてくるんだろー。
最初から育てられる必要がない形で生まれてくれば、死ぬ数も減ると思うのに。
最初から、いくつかの命は死んでくれないと困るよーに、生物は生まれてくるの?
親が育ててくれない赤ちゃんは、死んじゃうのがいちばん自然なの?
なんで、成長はとまらないの?
老化して死ぬまで、なんで生きてるものは成長し続けるの?
最初から死ぬために生まれてきたなら、それはなんのため?
地球っていう星の維持のため?
でも、星も死ぬよね。
なんで必ず死ぬために命が生まれてくるのかなー。
なんかのためだとしても、なんで生物はこんなにすごい数の種類が必要なんだろー。
ちゃんと生物学とか勉強してれば、こーいうわけわかんない命の仕組みも、簡単な合理性で説明できるものなの?
人間社会は、合理性をすごい求めたりするよね。
でも、それって、カオスにみえる命の存在に、ほんとに必要なものなのかなー。
たくさんの命が共存するために、人間が考える合理性って、なんかの役にたつのかなー。
なんてとりとめないことが、すごい頭から噴き出してくるー。
春樹のおじさんは、なんでこのデビュー作で芥川賞がとれなかったんだろー。
芥川賞って、なんでいつも面白くなさそーな小説ばかり受賞するの?
この前の「爪と目」。
あれが芥川賞なら、春樹のおじさんの「風の歌を聴け」がもらえてよかったはずなのに、って思った。
春樹のおじさんの小説みたいに、「わたし」と「あなた」っていう固有名詞をださない書き方して、それに「わたし」を誤認させる仕掛けもあって。
でも「爪と目」は、そーいう仕掛けがあまり面白くなくて、出てくる人たちもだれひとりつまんない人たちで、それでいろいろ仕掛けたつもりで最後は作者がそれ説明しちゃってて。
読者を信じてないし、読者で遊べてない。
問題集みたいな小説。
問題でいろいろ考えさせといて、うしろのページにちゃんと答えが書いてある、自己完結本。
春樹のおじさんの小説はそんなに親切じゃない。
子供っぽくない。
読者を子供扱いもしてない。
だから、あの小説をどんなふーに読むか、ぜんぶ読者に任せてる。
だから、あの小説の感想、いろいろみたけど、「なにも書かれてない」って表面的な感想もいろいろあった。
あの頃の芥川賞の選考の人たちも、あの小説を表面的、ってとったのかなー。
ヒントっていうより、ちゃんとひとつの答えに導かれちゃう小説が評価されて、春樹のおじさんの小説が芥川賞とってない、って、なんかヘンな気がしたけど、芥川賞って、だからつまんない賞なんだ、って納得もした。
「答え」がひとつ、っていう明確な物語は、「感動的」って評価されやすい。
読んだぜんいんが泣けたとか。
人が泣けるポイントなんて、みんなばらばらなはずなのに、みんなおなじ文章で泣く、なんて、そのほーが異様だと思う。
私はコドモがでてくるCMがきらい。
CMにでてくるコドモは、「可愛い」っていう記号でしかないから。
コドモを使わなくてもいーよーな内容なのに、コドモを使うことに「可愛い」って記号をスタンプする。
それはとても安直な表現だよねー。
そこで、「表現する」ことを簡単に投げ出してるよねー。
そんなの、ぜんぜんクリエイティブじゃないよねー。
最後は泣ける、って約束してる映画とか。
それって、ひとつの暴力にも感じる。
人の感情を一種類にまとめよーとする暴力。
感動するかしないかなんて、映画をみた人や小説読んだ人の自由に任せればいーじゃん。
でも、なんで読後感とか鑑賞後の感情まで、その物語のプロットのひとつのよーに設定して創るの?
「爪と目」は、ラスト、こー読んでください、っていう作者のプロットが見えちゃったのがつまんない、って思った。
でもあれが芥川賞なんだから。
春樹のおじさんは、そんな賞をとらなかったから、ハルキスト、っていう熱狂的なファンを生み出したのかもねー。
カリスマ教祖は、「こーしなさい」って最後までは言わない。
信者に、それを選択させる。
それが、信仰になる。
信者は自分が選んだ道だから、その道に価値をみいだすんだよ。
教祖からいーものを教わった、ってとこに価値をみいだしてるわけじゃないから。
感動っていうのは、その感情を抱く人が自分で抱くから、その感動に価値を感じる。
「こー感動しなさい」って用意された感動は、大量生産の安物の価値しかないから。
感情を用意して、それを差し出してこないで、って、いろんな時に思うよねー。
だれかとつきあう時も。
人と人が出会って、それからどんなふーな関係になるのか、そんなもの、最初から用意されたら、それは用意した側の感情の設計図だから。
そんな設計図に相手が酔わないのは、そんな押しつけにカリスマ性なんてカケラもないから。
押しつけられたものじゃなく、自分で選択したものを、人は大事にする、って思う。