いろいろありがとうございました
夏よりも 車の中まで くる日差し 運転中の ふとももジリジリ
言及通知で、私のひとつ前の記事に対する意見の2つのブログの記事読んだ。
それ読んで思ったことは、義務教育9年プラス多くの人が高校ぐらいまで行く学校教育の中で、もっとちゃんと人権について学べる環境がととのってればいーのに、って思った。
私だって、ちゃんと勉強したわけではないから。
学校にいた時、人権のこと、もっとなにもわかってなかった。
学校出てから、いろいろ考えるよーになった。
「それ、おかしくない?」
っていうモヤモヤを、いろんなもの見て感じるよーになったから。
人権の神格化、っていう言葉を使って言及されていたけど、神格視するとかじゃなくて、「私が」「あなたが」もってるもの、だから。
自覚してない人も、自覚してる人も、「人権ステキ!」ってはしゃぐ人も、「人権人権言うな」っていう人も、みんなみんなおなじにもってるもの、って私はとらえてる。
だから、人権について考えてみるとき、自分の人権について考えてみる方法がいーなー、って私は思ってる。
だれかの、ってことだと、つい他人事になってしまうから。
「自分」が人間らしく生きれる社会って、どんなふーなのがいい?って考えてみると、他人事にならないから。
あとは、自分の人権、どう考えるか、どう扱われたいか、どの部分の人権なら手放せるのか、そんなふーに自分の問題としてずっと考えながら生きていけばいいんだと思う。
こたえは、ひとつにまとまるわけじゃない。
でも、「考える指針」として、人権について学校でもっとちゃんとみんな学べて、「人権について考えれる」土台がそれぞれの中に作れる学習環境が義務教育のあいだにできるといーなー、と思った。
今はその学校の中で、「人権」が軽視されてたり、歪んだ考えが支配したりしてるから、学校から変わらないとダメなんじゃないの?って思うし。
いろいろ読ませていただいて、私の中にまた浮かんだ思いはそんな感じです。
コメントでもいろいろ書いてくださって、ありがとうございました。
今の私、が思う考えは、今はまだ未熟すぎてると思うし、これから自分が成長していくうちに、もっといろいろ考え方が膨らませれると思います。
だから、いろんな角度の意見は、これからも目にするたびに自分の頭で考えていこーと思ってます。
ひとつ、私の言いたかったこと、とても適格な誤解されにくい言葉で語っていたコメントを目にした。
でも、携帯から見た時で、その時、時間がなくて携帯をすぐとじなくちゃいけなかったタイミングだったので、保存しとくの忘れた。
それから二度と探せなくなった(;_;)
そのコメントなら、いろんな人たちがとても理解しやすいと思った。
言葉は大事なんだなー、って思う。
どんなに言いたいことあっても、言葉の作用で「言いたいこと」がそのまま表現できてない、ってこと、私はまだまだよくある。
っていうか、しょっちゅう。
なーんだ、たったこれだけの言葉で私が言いたかったこと、ちゃんと語られてたー、ってびっくりするほど簡潔なコメントだった。
私は、こーいう「適格な言葉」で自分の考えを語れるよーにしなくちゃ、って思った。
ブログは「思ったこと」を「言葉にする」練習になる。
私が、このブログ活動をもとにして出版、とかっていう話にぜんぜん惹かれなかったのは、いちどプロの立場になってしまうと、完成された言葉しか出せなくなる気がしたから。
読む人の要求も高くなると思うし。
まだ思考も文章もぜんぜん「成熟」から程遠い、「文章を書く」っていうスタート地点から足踏み出したばかりの自分は、どんなコースを走るかもわかってないし、見定める目ももってない。
そんな時にいきなり、もっと高いところにぽんっと乗せてもらったら、その段差がどれぐらいなのか、わからないまんまになりそー。
私が自分をバカって思うのは、自分が驕った時、それに気づける知性が足りないから。
だから、遠回りしたりムダだったりしても、自分が歩いてる道、自分の足動かしながら自分の頭も働かせないとダメ、って思う。
はてなの人はそんなに頭よくないよ、っていうコメントも見たけど、少なくても私よりはいい、から。
自分とぜんぜん違うなー、って考え方してる人見ても、でも、そーやって自分の考えを文章にする力はちゃんとあるわけだから。
私は、自分の考え、なんかモヤモヤと頭の中にあるけど、それをどこかに言葉にして出してみるって機会が少なかったから、こーやってブログでいろいろ書いてみること知って、それをまだ続けたい、って思った。
ぜんぜん完成形じゃないけど、言葉にしてみることで頭の中のモヤモヤに輪郭ができる。
その輪郭が、
「うーん、自分が思ってるの、なんかこれじゃなーい」
って自分で思ったら、もっと自分の言葉を自分のあらわしたい輪郭に描けるよーに鍛錬が大事、って思った。