偏見→追記あります
どの言葉 信じるのかは その人の 心の鏡に 映ったものだけ
はてなのトップに出てたこの記事読んだ。
私がはてなはじめて、一番驚いたのは、記事の内容にすごい批判をもらうことじゃなくて、書いたことと関係ないことですごい思い込みをされたこと。
私は自分の顔写真出してない。
はてなではだれも私の顔、知らないはず。
でも、私のこと、何度もブスって書かれた。
私はブスじゃないですよー、って抗議じゃない。
私がブスかそーじゃないか、はてな見ただけじゃなにも真実はわからないはずなのに、「ブス」って批判にすごいびっくりした。
「批判するの、そこ?」って思った。
私の顔知ってる人から「ブス」って言われたら、
「そう思われてもしょーがないかも(;_;)」
って悲しくなれるけど、私の顔知らない人から言われると、
「見てないこと、なんで言い切れるの?」
ってすごいフシギになった。
そういうこと言う人は、自分の顔は出してないし。
そういうこと言う人の顔が、不細工なのか美形なのかわからない。
だから私はそういうこと言われても、容姿のことでは突っ込み返せない。
その人の顔なんてわからないから。
でも、顔を出してもない自分のことブスブス言う人の顔を知りたいとも思わない。
ブスって言われた言葉に、私は、「見てないものを叩けるすごい人」って思った。
こんな女はブスっぽい、っていうのは、その人の「想像」で、現実的な批判じゃないし。
私がブスかどーかが問題じゃなくて、自分がぜんぜん確認もできないところを批判する言葉には、なにも説得力ないなー、って思っただけ。
だから、私は自分の顔を知らない人からどんなに容姿をけなされても、それでは傷つかない。
私の顔知ってる人がけなしてくる言葉とは、ぜんぜん違う。
私のブログを創作っていう人もいた。
私というプロフィール自体を疑って、ほんとはおじさんが書いてる、っていうコメントもいくつか見た。
私は、そういうことに、何も言い返せない。
「言い返せない」っていうと、「図星だからだろ」って思う人もいるかもしれないけど、それでもいーの。
言い返せないのは、言い返せない、としか言えないから。
どーしてって、私ははてなに自分の写真出す気はないから。
自分の本名とか、自分のほんとうの素性を明かすものを出す気はないから。
そういうことしたくなくて、本名でやってるSNSから逃げて、名前出さないでブログ書いてる。
私がほんとうはどういう人か、って特定されないよーに書いてる。
特定されたくない、って思いながら書いてる。
だから、私のこと「ほんとうはこういうやつだろー」って誤解されても、しょーがないと思ってる。
私ははてなで自分をちゃんと明かさないから。
でも、ほんとうの答え、って、ある場所にひとつある。
この答えがどこにあるか、それをわかる人とわからない人といるんだと思う。
「私自身は、私の正体知ってますよ」
と、私は、真実が私の中にはあることをここで書いたとする。
それを信じる人もいるかもしれないけど、
「自分がウソついてる自覚があるんだな」
って黒く読み取る人だっている。
だから、ここで私が書く言葉は、どんなふうに私自身は「ウソじゃないのに」と思っていても、それを人にそのまま押しつけれない。
私が書いた言葉は、それを読む人が解釈する。
ネットにはすごい大量の文章がある。
それを書いた人は、自分の本名明かしてる人もいるし、リアルの自分を知られないよーに書いてる人もいる。
ネットの文章は、読む人の目に映る文字。
その文章を書いた人がどんな人か、どこに存在してるのか、ちゃんとプロフィールとして書かれてても、その文章を書いてるところを直接見てない人たちには、ほんとうのほんとう、なんてわからない。
「騙されたくない」っていうのを、ネットでは、「釣られたくない」っていうのをはてなで覚えた。
それは、書いた人の問題じゃなくて、読む人の問題。
私のことを釣りだとかウソとか言われたことを例にすると。
私がほんとーの女って思うより、おじさんって思ってたほーが、気がラクになるのかな、って思った。
「ほんとーの女はこんなこと書かない」
「ほんものの女ってこーじゃないよ」
って思うのは、その人の中に「女ってこーいうもの」っていう、決めつけたパターンがあるからだと思った。
書いてること「ウソっぽい」って思うのは、「そんなこと実際ないから」ってことだから。
「そんなことあるわけないじゃん」って思うのは、「そんなことはこの世にはないはず」っていう思い込み。
そういう「思い込み」を、私は「偏見」って思う。
私がはてなやってよかったと思うのは、自分が知らなかった考え方がたくさんあるのを知れたこと。
まさか、「創作」とか「釣り」とか「ほんとはおじさん」って自分に言われると思わなかったけど、でもそう取れてしまうことってあるんだ、って気づけた。
私の書き方がヘンなのかもしれないし、私は女としてやっぱりおかしいのかもしれないけど、でも、本名でやらないネットは、まずその書く人のプロフィールから疑われるんだ、っていうこと、知った。
そう疑う人たちに、疑われた人はなにをすればいーですか。
私はいろいろ考えた。
「違うよー」「私はウソ書いてないよー」って思う気持ちが最初はすごい膨らんで、「悲しい」って感情になりかけた。
でも、私も証明できない。
私が私であること。
私が書いたことは創作じゃないよー、ってこと。
証明する方法がなければ、私って「ウソツキ」なの?。
それも違う。
そう思った。
真実は、私の心の中にある。
でも、その真実は、私の言葉ではあらわしきれない。
「騙してません」
「可愛い女じゃないかもしれないけどおじさんじゃありません」
いろいろ言い訳したって、解釈はいろんなふうにされる。
私が前に書いたことも、その言葉尻だけとらえて、そこだけ叩いてきたコメントも見た。
私の文章全体読んでくれたら、そこ叩く?って思ったけど、読む人は自分が読みたいとこしか読まないんだ、って気づいた。
「これ釣りだよね」っていうのは、書いた人に向けた批難じゃなくて、「自分はこの文章に騙されたくない」って自衛や、「ここに書かれてること自分には信じれない」って拒絶だと思った。
「騙されないぞ」って思うなら、「これ騙しだ」って叩くんじゃなくて、「真実はこーだ」っていうのを調べればいいのに。
そしたら、答えがどーか、わかる。
「ほんとうの女の書く文章じゃない」って思うなら、「ほんとうの女が書く文章」ってどーいうものか、それ調べればいーと思う。
いろんな女を知れば、女なんていろいろいるってわかると思う。
自分が女だって、自分以外の女のことなにもかもわかってるわけじゃないし。
理解出来ない女っているし。
「女の書くもの」って、定型じゃないし。
人が考えることは、いろんなことある。
人がつかう言葉もいろいろ。
辞書のよーに、はっきりした定義なんてない。
自分が信じたいものからはずれたものは、自分で認めれないのかもしれないけど、それは、自分が決めることだから。
読んだ人が決めた判断に、書いた人はなにも押しつけれない。
言葉は、自分が話したいことを話すのに選ばれるけど、自分が聞きたいものしか聞かないって選ばれ方もする。
だれかが書いた言葉、読む人はいろいろ思う。
書いた人が答えを出してるわけじゃない。
読む人が自分の好みの答えを出す。
「これはウソだ」「釣りだ」って感想は、自分はその書かれた文章の前で「自分の門に鍵かけました」っていうことだと思う。
自分の中に入ってこないでください。
理解したくありません。
そんな必要も感じません。
消えて。
自分の持ってる小さい金魚鉢の中の魚がリアルの魚と思う。
よその水で泳ぐ魚は、自分のリアリティの小鉢の中には見えない。
そういうものに対して、「それはウソだね」って言うのかなー、って思った。
ウソにしてしまえば、自分は傷つかないし、自分が理解できないことについて考えなくていーからラクになる。
「ウソつき」って人に言うことは、「あなたに関わりたくありません」っていうことだと思う。
ネットで自分が「ウソウソ」「これは釣りー!」って思うものって、自分が知りたくないもの、考えたくないもの、認めたくないもの、なんだと思う。
それは、絶縁宣言なんだと思う。
--------
私ってやっぱり文章ヘタ。
自分の話も書いたけど、自分の話を例にして「釣り」とか「釣られた」っていうこと全体に対しての考え書いたつもりだった。
でも、私に言われたことの反論みたいになってるかもね。
文章ヘタすぎて、ごめんなさい。。。。。
私は、ネットで書かれたものに、書いた人のほんとの正体まで気にしたことなかったから、はてなで「釣り」とか「釣られた―」とかいう言葉を見るよーになって、ネットの面白い感覚ー、って思った。
釣られたって思う人、釣られないもんねーって思う人。
ハンドルネームで書かれた文章には、それが釣りかどーかをすごく気にする読者もいるんだってこと、知った。
私がやってたSNSの仲間のあいだでは、そういう言葉、見たことなかった気がする。
でも、書いたほーは、「釣りでしたー」って言えば「釣りかよ」って信じてもらえるだろーけど、「釣りじゃないよー」って言っても、「ウソウソ」って信じてもらえないこともある。
それだったら、書いた人は、自分が書いたこと、ほんとうかウソか、その証明をする必要はないと思った。
信じたくない人に信じてもらうなんてムリだしムダだから。
釣りとか釣られたっていうのは、読んだ人と書いた人のかけひきじゃない。
読んだ人がひとりで決めてること。
そう思った。
そういうこと、考えたから、そう書こうと思ったけど、この追記ももー意味がわかんなくなってるかもしれない。
ズバッと言いたいこと言葉にできる人、尊敬する。